川喜田半泥子について
かわきた はんでいし 川喜田 半泥子 (1878~1963)
川喜田半泥子は、明治11年11月、200年以上の歴史を持ち、三重県でも一、二を争う豪商の家に生まれました。
半泥子は生後間もなく、祖父と父を相次いで亡くし、満一歳を俟たずして、川喜田家の第十六代当主となりました。まだ若い母は実家に帰され、半泥子は祖母の政によって育てられました。
半泥子という名は号であり(本名は川喜田久太夫政令)、禅の導師から授けられたものです。「半ば泥(なず)みて、半ば泥(なず)まず」何にでも没頭し、泥んこになりながら、それでも冷静に己を見つめることができなければならない、という意味です。
半泥子は、企業の要職を務める傍ら、その多忙な日常の中で、書画、茶の湯、俳句、写真など、多彩な芸術的才能を発揮した人物でした。
社交においても、小林一三ら経済人や、荒川豊蔵らの陶芸家をはじめ、茶道家の久田宗也、書家の会津八一、俳人の山口誓子など、さまざまな人物と親交を持ち、その自由でおおらかな作風にも表れている半泥子の人柄は、多くの人を惹き付ける魅力にあふれていました。
皇族との親交も語り継がれており、貞明皇太后に水指を献上したところ、陶芸の指南要望がありましたが、半泥子は自らは陶芸の素人であることを理由に固辞したそうです。
陶芸は還暦近くになって始めたものでしたが、戦前は自邸の千歳山に窯を築いて、若き陶工たちと交わって研究を重ね、戦後は津市郊外の廣永に窯を移し、会社組織の廣永陶苑を設立、愛弟子 故坪島圡平(2013年没)らと共に作陶に励みました。戦前の千歳山窯と、戦後の廣永窯で生涯に生みだした作品は、3万点とも5万点とも言われ、その大半が茶碗でした。
晩年まで、臥床しながらでも画や書をかいて過ごし、83歳の時には「お前百までわしゃいつまでも」と揮毫した半泥子でしたが、昭和38年10月、老衰のため満84歳で没しました。
今なお多くの人を魅了し、「東の魯山人・西の半泥子」「昭和の光悦」などと称され、近代陶芸界に大きな足跡を残した半泥子の作品は、趣味の域を超え、高い評価を受けています。